被服は体表まわりの環境調整、という意味が大きい。
自分の好きな服を、環境調整要素もばっちりだという的確さで着られるようになったのは、ほんとにここ最近ではないかと思う。
自分はちょっと、恒温動物として、自力で環境の温度変化に対応する能力が低いんじゃないかと思っている。あと「いまの温度湿度が自分に及ぼしうる体感」がよくわかっていない。
二十代後半のころもうっすらと、まわりに比べて自分の厚着/薄着がちぐはぐなことがあったと思う。これはまわりと比べてちぐはぐであっても自分が快適ならなにもかまわないのだが、その自分が、あつすぎた/さむかった、という有様なのだ。かなしい。
で、ここ数年の話。もともと寒がりだと思っているけど、寒いからとしっかり防寒して外を歩いたらやたらと汗をかいてしまう。書き出すとばかみたいだけれど、そういうレベルの「うまくいかなさ」がちょこちょこ発生するようになった。
外の気温、目的地の空調の効き具合、そこに行くまでの手段。荷物や靴もふくめて、「的確だった!」ときれいにおさめることの、困難さ。最近その困難さを、単純に物量で解決しつつある。
数がね、要るんですよ。 種類が要る、といってもよい。
袖なしか、三分袖か、五分か、七分か、長袖か。 トップスの袖の長さ、それぞれがもっともしっくりくる温度湿度の日がある。
被服による体表周りの環境調整、ここに自分が着てうれしいもの、も乗っけてるので、まあ、布が、増えるんですわ。2016年にかなり数を減らしたし、それ以降に買うときは素材と色味に制限をかけるようになったから、これは服の量を「最適化」できるんじゃないかって期待した。この「最適化」は「最小化」のつもりだったけれど、ちがうわ。自分がなんとなく思い描いていた量の、たぶん3倍以上が、いまの「最適」数だわ。
きょうはフェリシモの定期便(10月分)がとどいて、秋冬の環境調整用にと注文した長袖ハイネックとかフリースベストなんか見ながら、思ったのでした。