キテキ

はづき真理のブログ

ウィリアム・フォークナー『野生の棕櫚』

まったく予想外の愛おしさを抱えてしまった。

長い付き合いのみなさんとZOOM読書会、2021年からはじめた比較的新しい試みですが、35回めとなりました。自分ではまず選ばない、というかおそらく存在を認知すらできない今回のお題本はこちら。

ウィリアム・フォークナー(加島祥造 訳)『野生の棕櫚』中央公論新社2023年11月

世界に対して徹底的にふたりきりであろうとしたふたり、としてのシャーロットとハリーの物語について、読み終えてからずっと考えています。

フォークナーがアメリカ文学のなかでどのような存在なのかもまるで知らぬ自分の初フォークナー、はやめに入手していたのに取りかかりは遅く、きのう19時半過ぎの時点でだいたい20%しか進んでおりませんでした。その後50%ほど読み進んだあたりでも、まさかこんな感想を自分が抱えるとは思いもしなかったのである……

本体カバーに記されたあらすじは公式サイトのものよりわずかに詳しい。

一九三七年ーー若き人妻と恋に落ちた元研修医が、二人の世界を求め彷徨する。(「野生の棕櫚」)。一九二七年ーーミシシピイ河の洪水対策中、漂流したボートで囚人が妊婦を救助する(「オールド・マン」)。異なる二つの物語を交互に展開する斬新な構成で二十世紀文学に最大級のインパクトを与えた、著者の代表作。

これ読んで、「野生の棕櫚」に惹かれます? 「オールド・マン」のほうがぜったいおもしろそう。実際に読みはじめてみて、まず「野生の棕櫚」の最初の章の視点人物の医者がなんかよどんでる、医者の妻が何度も温め返したオクラ料理のように嫌な感じがする。こいつが人妻と彷徨した成れの果てかと勘違いした。そしてのちにたしかにこの医者は「シャーロットと出会わなかったハリー」というひとつの可能性だったんだなと納得しました。

その後「オールド・マン」を一章はさんでからはじまる「野生の棕櫚」ハリー視点の話は、ハリーが考えていることが局所的に出てはくるけど基本は行動しか書かれないので、なんですか、いつシャーロットとのっぴきならない恋愛関係になったんですかと、ぜんぜん納得できない。それにくらべて続く「オールド・マン」の章は増水してくる川の描写とかがすごくてぐいぐい読めていける感じがした。

シャーロットとハリーが安定的な収入を蹴って鉱山へ出発するところ、背の高い囚人がようやく陸地に辿り着けたところ、それぞれの三章めを読んだところで、一息いれました。なにせ背の高い囚人がようやく陸につけたもんで、疲労困憊だったし、この時点でつぎにくる「野生の棕櫚」パートは鉱山でふたりがどう暮らそうがどうでもいいくらいの気持ちだった。ところがさきに読み終えた母にそこまでの所感を話していたら、ずっと考えていたわけではないんだけれど、シャーロットとハリーの関係を男女の恋愛ととらえないほうがしっくりくる、という感想が自分の口から出てきて、言ってみてから気づいたけれども、それはほんとにそうだったんである。

本編後、訳者による解説がついている。そこで異なる筋の物語が交互に現れる作品の構成について、作家自身の作品はシャーロットとウイルボーン(※ハリー)の物語であり、「オールド・マン」は「野生の棕櫚」の背景的効果を持てばいい、という語りが紹介されていた。そこに後押しされるように、心置きなくそのふたりのことを考えてみた。(そうしておきながら作者の「恋のためにすべてを振り捨て、しかもその恋を失う話」だという語りは無視してしまいます。いやきっと、フォークナーもキャラクターも「男女である以上そこに発生する最も強い関係性は恋愛」に囚われすぎだったんだよ。)

「野生の棕櫚」のふたりの関係は、ありふれた陳腐な表現をすれば、かくあるべしと求められ定められたレールの上をまじめにつつましく生きてきた男が、遅い初恋、および性体験によって道を外れ、奔放な女にのめり込んでいく、ということもできる。そういう読みは、ふたりの友人マコードの「手に負えないな。ぼくが不幸にも息子を持つことになったら、そいつの十歳の誕生日に小ざっぱりした淫売屋でも連れていってやることにするぜ」(178-9頁)というせりふにも現れている。ところでマコードは登場時の印象よりよほど親身になってくれるいいやつです。Take my curse.

(原文がネットで確認できました)

でもそういう、ハリーが性的恋愛的な惹かれを盾にシャーロットに鼻面を引きまわされているというわけではなくて、ふたりともがとにかく頑なで融通がきかなくていたいけで、どうしようもなくお互いがお互いの片割れで、だからいっしょにいないわけにはいかなかったんじゃないかと思った。「片割れ」という語を出すと、それこそまさしくプラトン『饗宴』いわくの(読んだことないけどね!)「男女の愛」そのものになるので、このあたり自分の思考が整理できてないが、こういうふたりの関係をいまの社会規範的「男女の愛」と定義づけるのは、自分はしっくりこない。

「野生の棕櫚」の四章めの鉱山での話は本作としてはわりとはっきりと肉体的な欲望が描写され、その結果としての妊娠そして堕胎、と展開していく。なのでふたりはしっかりやることやっているのだが、それも性的恋愛的欲求に基づいてというより、ただふたりでできることを全部試してみた結果、セックスというアクティビティもたしなんでおります、くらいの感じがするんである。

社会のなかで「男女のつがい」と見做され生きていくということ、それは模範的には「夫と妻」であることだろう。そういう世界に包摂されることを拒否して、ただふたりきりであろうとしたシャーロットとハリーの痛々しさを肯定してあげたいと思った。どうした自分、マコードの親切さやリトンメイヤー(シャーロットの夫)が示す辛抱強さよりもっと近く、ふたりにぴったり寄りそいたがっているぞ。

ここまで思い入れた理由は、ふたりを恋愛関係だと思わない、という発想を得たあとに、すごく好きなカポーティの短編「誕生日の子どもたち」を連想したせいもある。

強烈な個性のある十歳のミス・ボビットは黄色い目をしていて、「野生の棕櫚」のシャーロットもたびたびその黄色い目を描写されている。「誕生日の子どもたち」のミス・ボビットは自分に恋焦がれる十三歳の少年をちっとも必要としてない、ひとりで完全体みたいな存在なんだけれど、彼女にどうしようもなく焦がれる側の気持ちがハリーがシャーロットに惹かれる気持ちかもしれないし、シャーロットもおなじものをハリーに感じたのかもしれないのだ。

(…)ビリー・ボブは眠ることができなかった。涙こそ流さなかったけれど、彼がやることすべてがぎこちなく、舌は鐘舌のようにこわばっていた。ミス・ボビットが行ってしまう、それは簡単なことではなかった。ビリー・ボブにとって、彼女は普通の存在ではなかったからだ。どう普通じゃないのか? 十三歳の少年がただ身も世もなく恋をしていたというだけじゃない、ということだ。彼女は彼の中にある「奇矯なるもの」だった。それは彼にとってのピーカンの木であり、読書を好むことであり、相手に自分を傷つけさせるまでに誰かを深く愛することだった。彼女はビリー・ボブが簡単に人前に晒し出すことのできないものだった。(47-8頁)

「奇矯なるもの」の原文はqueer である。

世界に「認められない」傾向や欲望を抱えていて、自分のその「奇矯なる」部分を削りながら穏便に埋没していくよりは、取り込まれることを拒絶したい。シャーロットのそういう部分に共鳴したのがハリーで、出会ってすぐに子どものころにできた傷の話をハリーにしたシャーロットも、自分と共鳴できるものがハリーにあると思ったんではないか。

そういうことをずっと考えている。まちがいなく、本日の読書会で自分がもっとも本作の「野生の棕櫚」パートを愛しんだにちがいない。

 テーブルに平置きした四冊の本を上から撮っています。フォークナー『野生の棕櫚』中公文庫は見開いた聖書の左側ページに載っています。右側のページには旧約聖書の詩篇137が載っていて、このなかの「エルサレムよ もしもわたしがあなたを忘れるなら」は、フォークナーがつけた出版前の題名。その下に並んでいるほかの二冊はカポーティ『誕生日の子どもたち』文春文庫と、ペンギンモダンクラシックスのペーパーバックChildren on Their  Birthdaysです

ほかにも執筆時の題名のこととか、「オールド・マン」のここが好きとか、ポーランド人ってこういうあつかいなのかとか、避妊方法はなんだとか、ちょこちょこ記しておきたいことはあって、よゆうがあればべつに書きます。