キテキ

はづき真理のブログ

デイジー・ジョンソン『九月と七月の姉妹』

少しまえに読んだ本のはなしと、自身のミソジニーについて。

デイジー・ジョンソン 作 (市田泉 訳)『九月と七月の姉妹』

内気で意志の弱いジュライは、姉のセプテンバーの支配下にあるが、二人の絆は揺るぎないものだった。

公式のあらすじに上記のように記されているが、読みはじめたときの自分の印象は異なった。ジュライはわりとふてぶてしい感じがしたし、セプテンバーは面倒見のいいお姉ちゃんに思えた。

ちょっとトロいところのある妹を、ときに乱暴に扱いながらもフォローしてあげている姉。

この自分の読みかたが、非常にパワハラモラハラ加害者にとって都合のいいものであると、じわじわ気づいていったときの居心地の悪さといったらない。好ましいのはセプテンバーで、むしろジュライに対してはちょっとイラついてさえいた。これって「加害者は魅力的に、被害者は信用ならなくみえる」という、パワハラモラハラ周辺あるあるなのでは?

セプテンバーの侵襲性は、彼女の不在が示されてからが恐ろしい。起こらなかったこと、が描かれてしまい、ジュライは老年にさしかかってもまだ、セプテンバーが生きるための生贄のままだ。

もっと違う書きかたならいいのにと思ったところは、ジュライがセプテンバーの意思から外れて動こうとしたきっかけが、2回とも同年代男子への性愛的興味にみえる点で、ただこれは「安直」なヘテロセクシズムの強靭さに鼻白むというより、自分のなかでもうちょっと屈折した思いがありそう。物語のなかの「少女」が男に欲望を向けるところをみたくない、というのは、自分の場合ミソジニーの一種でもあるかと思う。

女は女友だちよりも男をとるとか、女の友情は儚いだとか、そういう言説には反発したくなる。なのでそう読みとれる行動をする「女」に「そんなんだから馬鹿にされるんだ!」といいたくなってしまう一方で、その行動は「自分は『そんなん』じゃないですよ」というアピールになっているのではないか。そして「なに」に対してのアピールかといえば、「男性優位社会」なんじゃないか。「自分は愚かな女ではありません」という。なんとも、いやーーーーーーな帰結だけれども。「女にしては賢いと認められたい」、たぶんそういうミソジニーが、自分のなかにはわだかまっている。わあ、いやな話になりましたね! でもまあ、書いておけばちょっとすっきりする。

読了してから本のタイトルを検索していて、デイジー・ジョンソンの短篇を読んだことがあったと気づいた。岸本佐知子訳の「断食」である。

これがまあ、まああああ、湿度がびったびたのへんなはなしで、そういえばこれもたしか姉妹がでてくるが、いや、しかし、なんだ? なんの話でしたっけ? 湿度がびったびたと書いたけど、読後はむしろ「はっはっは」と笑っちゃう、すっぱりからりとした気持ちになったものです。そういう読み方でいいと思う、じつはもっと嫌なものがひたひたと満ちている話なんだったら怖い。