まず銘記する。いまこの時期に、かつてユダヤ人が「絶滅」を目論まれ実際にどんなことが実行されたのか、その途方もなさのかけらを知ることと、イスラエル建国過程の正当化、ガザやヨルダン川西岸で起こっている虐殺の正当化を接続してはいけない。
本書はチェコスロバキア(当時。現チェコ)のテレジンに設けられたユダヤ人ゲットー・収容所で起きたことを書いている。先日、筆者の野村路子が代表をつとめる「テレジンを語りつぐ会」*1のイベントに参加した知人づてに、テレジンの存在を知った。日本語圏のネットでは、テレジンもしくはドイツ名テレージエンシュタットで検索するといくつか情報がひろえる。(「テレジン」だと検索結果上位は語りつぐ会発信情報が多い)
また手元の『ホロコースト大事典』でも「テレージエンシュタット」として立項されており、ほかに「ゲットーにおける文化生活」をはじめ他項にわたり言及されている。
などなど、概要をさらったうえで本書を読んだ。現在起こっていることとの共通点に胸が塞がれる思いをした。
あとがきで野村はこう述べる。
好きなときに、好きなだけ絵を描くことができる。失敗したら新しい紙にとりかえて、たくさんのクレヨンや絵の具から、好きな色をえらぶことができる。途中でいやになったら、「またあした」といって、やめることができる……そんなこと、あたりまえだと思いこんでいる日本の子どもたちに、それができるのはとても幸せなことで、それさえも許されずに死んでいったおおぜいの子どもたちがいたことを知ってほしいと思いました。(155頁)
1993年の発刊当時はわたしが12歳になる年で、そのころにこの文を読んだらどう思ったろうと想像してみた。モノに恵まれた日本の子どもたち、へのチクリとした説教くささに多少鼻白む思いはしても、基本的に親や教師のいうことにすんなり納得できるタイプだった自分は、いまの自分が恵まれていることを自覚して、よりよく生きよう、みたいな気持ちになったかもしれない。
ところでこの架空のわたしの感想には、具体性があまりない。それというのも、上記の野村の文にも具体性がないからではないかと思う。
日本の子どもたちに知って、そしてなにを受けとってほしかったのか。戦争のおろかしさ、命のたいせつさ、といった答えは、本書を読めば引きだせるだろうと思う。しかしそこからさらに具体的に、どんな相手であろうとも人間性を奪い蹂躙し虐殺することを正当化などできないのだ、しかし相手は自分とはちがうという線引きはこれほどおぞましいことを可能にしてしまうのだ、というところまで踏みこむべきではなかったか。「相手は自分とはちがうという線引き」、これは差別である。そして他民族、他国籍者に対する差別は、現代の日本の子どもたち、だけではなくこの列島に住むだれもが当事者たる問題である。そこまで書く必要があったと思う。
わたし自身、昨年10月7日、ハマスのイスラエルへの「越境」攻撃以降にはじまったことをどう位置づけたらいいのかぜんぜんわからずにいて(それこそ、そこが「はじまり」ではないことも認識がおよばずにいて)、おぼつかないながらもガザについて学びはじめた状態なので気後れする部分もあるが、どうにか築きつつある自分の意見として以下を書く。
本書はユダヤ人が受けた非人道的なあつかいを平易なことばづかいで具体的に描写しており、それがどんなにひどいことであったかが伝わりやすい。それゆえ読者の受けとめが「こんなひどい目にあったかわいそうなユダヤの子どもたちがいました」という感傷にとどまり、その感傷はイスラエルという国のプロパガンダとして機能してしまう可能性がある。
戦後アメリカの統治を受け現在も安全保障上アメリカの「傘下」にある日本の社会の空気は、いやおうなくアメリカ側、西側に偏っている。ユダヤ人のための国家・イスラエルを認識している人の大半は、自分もふくめて「歴史的ないきさつが複雑でよくわかってないけど、迫害され大虐殺にあったユダヤ人のための国があるのはよいことだ」くらいのゆるい親和的感情を持っていたのではないかと思う。そして野村にその意識がなかったとしても、本書の読書体験はその思いの補強になり得る。
本書で活写される当時のナチス・ドイツがユダヤ人にたいして行った非人間化、ユダヤ人ゲットーに押し込め、不自由な生活を強いて、おまえたちは安全で清潔で文化的な生活に値しないのだと示しつづけること、これらはイスラエル軍が2007年からガザ地区を封鎖しつづけていることとあまりにも同じではないか。わたしたちがナチス・ドイツによるユダヤ人のホロコーストをその深度はともかく「学んで」きたのは、それが対象をかぎらず二度と起こしてはいけない所業だったからではないのか。あらためて、なんでこんなことが起こっているのか、まかり通ってしまえるのか、わからなくて身がすくむ。
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また本書では題材から外れているとはいえ、当時の日本がナチス・ドイツの同盟国だったことをあとがき含めまったく言及してないことが気になった。
もちろん1993年当時(も、いまも?)そんなことは当然の前提知識だとしたうえでなのかもしれない。しかし当時の日本の加害への目配りがまるでみられない本書に、かってに我が身を投影して居心地の悪さを感じてしまう。
わたしは高校の授業で世界史を選択し、大学は文学部史学科に進み、西洋近現代ゼミに所属し、ナチス・ドイツ時代に国内にとどまったエーリヒ・ケストナーを学部卒業論文の題材にえらんだ。(史学科なのに歴史学的アプローチをまったくせず、かといって文学的アプローチもできず、卒論は論文といえる出来ではとうていなかったのだけど、それはさらにべつの話です) そうなった流れに明確な理由づけはできないが、それでも自国の歴史ではなく「世界」史を、「西洋」を、ケストナーをえらんだ自分の判断には、国籍国である日本への無関心がくっついていた思う。日本の戦中の児童文学作家と引き比べてケストナーを選んだわけではなかった。そういう存在を知ろうともしなかった。わたしは国籍国の来し方に無知で無関心であっても生きていけた。この国で生きる以上、民族的にも言語的にも意識することなくマジョリティであるからだ。気にしないでいられる、という特権があるからだ。
なのでナチス・ドイツがユダヤ人を「劣等民族」あつかいしたことは、日本が植民地支配した中国、朝鮮等のひとびとへの態度とまったく同根であるのに、ぜんぜんその視点がないななんてえらそうに思ったそばから、己はどうだったというんだ、みたいな「恥」を思い出す。
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いまこの時期に、かつてユダヤ人が「絶滅」を目論まれ実際にどんなことが実行されたのか、その途方もなさのかけらを知ることは、ガザやヨルダン川西岸で起こっている虐殺を糾弾することと繋がっている。
そしてより地理的に身近な、日本における在日朝鮮人をはじめとする外国人への差別と排斥感情、韓国人への差別・敵視を動機とした宇治ウトロ地区の放火事件、出入国在留管理庁(入管)の収容所で自死や餓死、医療放置死が起きているのに「“不法”滞在の外国人だからしょうがない」といわんばかりの社会の反応、またとりわけ近年はクルド人が「目新しい」差別煽動のターゲットになっていること、そのすべてがおなじ方向を向いている。あいつらは自分たちとちがう、あいつらは自分たちより倫理観が低く道徳心がなく劣っている、あいつらをのさばらせていたら犯罪をおかす、あいつらは自分たちに悪さをしようとしている危険な存在だ、そうなるまえにあいつらを拘束しろ、収容しろ、いっそ殺してしまえ、そうだあいつらは殺してもいい存在だ。
その流れには乗らない。流されない。ぜったいに。
これはつぎに読みたい本