キテキ

はづき真理のブログ

「薄目でみてしまう」こと

イスラエルで行われていた野外音楽祭がハマスによって襲撃されたこと、報復としてガザ地区にいま起こっていること。

TVニュースをみる習慣は2021年夏に絶えて、自分にとって「毎日のニュース」は旧Twitterのタイムラインだ。フォロー以外にも自分のおおざっぱな感覚で「こういう話題が多い、こういうアカウントが多い」リストをいくつか作っていて、そこに流れてくるものをクリックして読みこんだり、あとで読もうとブクマしたり、いまは余裕がないとスルーしたり、そういう選択を、さほど意識せずに行っている。さらに読んだものにたいする自身の反応をSNSに投稿するかしないかにも、判断は及ぶ。「きっとまとまった“意見”が出てこないだろうから」、あらかじめ読むのを回避することもある。

そういう、「薄目でみてしまう」話題のなかに、パレスチナガザ地区に近いイスラエル側で開催された音楽祭がハマスの急襲を受けたこと、イスラエル側も報復の攻撃をはじめたこと、がある。10月7日以降、ずっと詳細を読みこむこと、記事をクリックすることを避けていた。

ガザの完全封鎖、という文字がみえはじめてから、落ち着かなくなった。13日の夜に、きょうの自分は元気で満ちているぞと自覚があったので、特定非営利活動法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)*1が旧Twitterに投稿した音声動画をクリックした。


このアイサールさんの2022年8月の取材レポートをはじめ、いくつかのニュース発信を読んだ。

ガザ地区に降り注ぐロケット弾――繰り返される破壊、苦悩、そして死 - Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)


10月12日のロイター。

焦点:電気も水も逃げ場もない、絶望の淵に立つガザ | ロイター


10月13日の共同通信

封鎖のガザ、状況悪化の一途 死者増加、近づく医療崩壊|47NEWS(よんななニュース)


10月13日のNHK

イスラエル軍 パレスチナのガザ地区北部に退避通告 13日動き随時更新 | NHK | イスラエル・パレスチナ


10月13日のCNN.

ガザ民間人への「集団的懲罰」は戦争犯罪に相当、イスラエルに封鎖解除求める アムネスティ - CNN.co.jp


CNN記事中にある、アムネスティ・インターナショナルのサイトの記事。日本版はまだ訳出されておらず、Google翻訳をかけて読んだ。

Israel must lift illegal and inhumane blockade on Gaza - Amnesty International

上の記事のGoogle翻訳から引用する。(...)は省略部分。段落の途中から引用している。文中に出てくる“アグネス・カマラール”の綴りはAgnes Callamard で、日本語圏では“アニエス・カラマール”表記が一般的らしい。アムネスティ・インターナショナルの事務総長とか、事務局長とか、どうも翻訳にブレがあるがそういう人。

(…)アムネスティは、パレスチナ民間人にはハマスやその他のパレスチナ武装勢力の犯罪に対する責任はなく、イスラエル国際法に基づき、自らが関与しておらず、制御できない行為によってパレスチナ民間人を苦しめるべきではないと改めて主張する。

パレスチナ武装勢力によるイスラエル民間人の恐ろしい大量殺害やその他の重大な違反は、イスラエルが国際人道法を尊重し民間人を保護する義務を守ることを免除するものではない。ガザの民間人に対する集団処罰は、ハマスやその他の武装勢力による戦争犯罪の犠牲者に正義をもたらしたり、イスラエルの民間人に安全をもたらしたりするものではない」とアグネス・カラマール氏は述べた。

アムネスティ・インターナショナルも、ラファ国境検問所での度重なる攻撃を懸念している。同報告書はイスラエルに対し、ガザへ人道支援物資を届けるための人道回廊の設置を促進し、医療を必要とする人々がガザ地区外で安全に移動できるようにするよう求めている。国際社会に対し、人道回廊をめぐる合意に向けて取り組むよう求めている。

イスラエル当局は、民間人を死傷させたり、民間の家屋やインフラを破壊したりする違法な攻撃を自制しなければならない。イスラエル当局は、東エルサレムを含む占領下のヨルダン川西岸地区パレスチナ人に対する暴力を扇動することを控え、その管理下で暮らすすべての民間人の安全を確保しなければならない。ガザ地区のすべてのパレスチナ武装勢力は、すべての民間人人質を無条件かつ即時解放しなければならない。


こういうことが、自分の体がある場所から地理的に離れている場所で、現在進行形で、起こっている。距離がある、たったそれだけのことで、自分の体への影響をほぼなくすことができる、というのが、いやそれは当然だろうという「したり顔」の納得もありつつ、でもやっぱり、どうしようもなく、ぶきみだと思う。

なんで自分は、命にかかわるような影響をうけないでいられるんだろう。

社会正義のために活動するひとを、うさんくさそうに見たり、もっと積極的に冷笑、嘲笑するひとがいる。そのひとらは抽象すれば、「おまえはいかにその問題に献身しているか」という密度や深度を一方的にはかり、たいていの場合「まったく足りてないから、おまえの振る舞いは信用に値しない」と断じる。

こういうひとらはある意味潔癖なのだろうか、いやもっと単純に、ひとに意地悪をしかける快楽にハマっているだけじゃないか、などと思うが、きのう、「ぶきみ」とことばにしてみて思った。こういうひとらは、わたしが「ぶきみ」だと直視し損ねている感情の存在を否認している、もしくはまだ気づいていないひとらであると言える、かもしれない。

起こってはならないことが、現に起こっている。なのに自分は致命的に心を揺らすことなく生きていける、ただ距離があるというだけで。どうしてこんなことが可能なんだろう。

このぶきみさを、どうにか抱えてやっていかなくてはならない。どうにもまとめられないけれど、そういうことです。

*1: